読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

遠い声を聴く

創造する、とは遠い声を聴く、ということだ。

少なくとも自分でなにかを創り出している、という感覚ではないと思う。

一生懸命耳をすましている感覚に近いような気がする。

でも、瞑想すれば聞こえるかというと、そんなことはない。

お皿を洗ったり、子どもの制服にワッペンをチクチクつけたり、ものすごい集中力で料理を作ったり、

時間に追われて企画書を作ったり、生活を丁寧にしっかりやる、という先に、ちょっと広場のようなところで一休み。

一杯のコーヒー。

香りたつ匂い。

ちょっと深呼吸。

そんなときに聴こえる声。

それに従うということだ。

一度聴こえたら、もう大丈夫。

時々聴こえなくなることがあるかもしれないけれど、また耳をすませばいいから大丈夫。

そしてこの世の中には創造的でない仕事なんて、ひとつもないから

仕事とは、遠い声を聴く、ということなんだと思う。

言われたこと、見たこと、そのままじゃなく、もちろんそれも受けとめた上で、遠い声が聴こえるかしら、私にも。

TOTEM

昨日はシンガポールでトーテムを観た。

TOTEM - Cirque du Soleil

http://www.sistic.com.sg/events/totem1215

日本でZEDを観た以来。手に汗握るパフォーマンスから、素晴らしい音楽。

ストーリー性を感じる、でもかなり観る側の想像力に委ねられた場面展開。

まるで大自然の中にいるように感じるほど、彩り豊かな衣装や舞台芸術。

4歳の長男には動きが機敏になり、ジャンプが増える、という効果も。

私は、これは命がけの技だ、ということに震撼しており、肩に力が入ってしまい、終わったら心底ホッとした。

確かにとても高いチケットで、そんなにしょっちゅう行けるものではないけれど、こんなオリンピック級のパフォーマンスを次々と、それも心躍るストーリーと音楽に乗せて観られるなんて、とても幸せなことだと思った。

そして、彼らの表情。

パフォーマーの表情がよかった。

演者としての顔と、何かの技を披露する前にチラっと見せる、なんていうのかな、体操競技で演技を始める時の選手の顔。

さあ行くよ、という時に、すぅっと息を吸い込む感じが見れた。

あの顔はいいなあ。自分はといえば、最近、本番、していない気がする。

あそこまで命がけなことはできなくても、なにかの本番をもつというのは、とても大切なことだという気がする。

話は変わるが、シルク・ドゥ・ソレイユ、劇団としては稀有な優良企業だったのに、2012年頃より経営が傾き、今年買収されたのだとか。

ギー・ラリベルテ氏は10%しか株を保有しないことになった。

これもひとつのプロセスとして、シルク・ドゥ・ソレイユが今後も素晴らしい作品を創り続けていくことを、一人のファンとして、心から祈る。

ぼくはアフリカ きみはエジプト そして私はスリランカ

物語を書く、ということは、足のかかとが、3センチくらい、ふわっと浮くことだ。

いや、浮きたくて書いているのかもしれない。

いったん浮いて、ちょっと違うところに着地したいのやも。

息子の話す物語は、いつも、現実から3センチくらい、何かがズレている。

翻訳をかけるともたらされる言語のズレ、というのも、面白い。言葉で遊ぶ感じ。

それはこのズレがもたらす自由さがイイんだと思う。

しっかり構築されたものの中の柔らかさ。

でも、意味もへったくれもないのだけれど、そもそも何もないからこその子どもたちの捉え方も、ヘンテコでいいなあ。

今日、友達と遊んでいて、息子が、

「いい?キミは”エジプト”だから。ボクは”アフリカ”ね!いい?わかった?」と話していて、息子の友達は、息子よりも2歳年上ということもあり物事の捉え方がマトモなので「えーと、それはボクはミイラとかってことかな?(エジプトだから)」

息子「いいよ、ミイラ。でももっと全部ね。ミイラとかじゃなくて、全部ね、ピラミッドとかも全部入ってるから。ぜーんぶやってね!」

それで息子はアフリカを表現することに忙しく、柔軟で心優しい息子の友人はエジプトをしっかり担当していた様子なのだけれど、アフリカにエジプトも入ってなかったっけ...?

あ、でもそんなことはどうでも。

思わずコーヒー淹れながら、そうだなあ、しいて言うならママはスリランカですかね。

夢中で遊ぶ子どもたちは、本当に素敵だ。

今日はアフリカとエジプトとジェラシックパークとお父さんとたこ焼きを担当してくれて、どうもありがとう。

今日はいくらかマシ。体調、ぼちぼち。

ここはシンガポールだというのに、私はコートを着て、もこもこの靴下をはき、これでもかというくらいに鼻をかんでいる。

これは風邪なのかなんなのか。

咳も止まらないし、咳をするとアオガエルのような痰が出て、いちいちびっくりだ。

カモミールティーってこんなに美味しかったっけ。

この数日間は寝たり起きたり、ほとんど外に出られない日が続き、昨日強制的に外に出て、仕事というよりはお手伝いをほんの少しやって、ぜえハァ言いながら帰ってきた。

今日はいくらかマシ。体調、ぼちぼち。

読みたい本があるのになかなか読めないでいるから、こうした時間ができるのはとても嬉しくて幸せ。

人と過ごす時間もとてもいいものだし、家族との時間もとても大切だけれども、周りのほとんどの人が私のことを何も知らなくて、でも程度にざわざわしていて、好きな音楽を聴きながら、ただ本を読む。

ここまでをいつまでに読まなくちゃいけない、という期限もないから、さっきのページに出てきた知らない名前を調べたり、調べた後にかなり遠くまで出かけていってもいい。

そういう時間を一週間に一度でいいから持てたら、私はちゃんと調律できる気がするし、願わくば、毎日そういう時間を少しずつでも持ちながら生きていけたら、本当はすごくいいと思う。

トコトコ走ってばかりいると、今あるものにしか目を向けられなくて、ここに無いもの、あるはずなのに無いものが見えなくなってしまう。

なにかの不在。私はそれをいつも感じていたいし、感じられる心の状態にありたい。

さて、書くことの幸せも堪能しつつ、本に戻ろう。

芝浜

立川談春さんの落語が無性に聴きたくて観たくて、ホームページを見ていたら

なんと今年の年末12/27に大阪で芝浜を演ることがわかった。
このためだけに日本に帰りたい衝動に駆られたけれど、そうもいかぬ。
12/19の友人の結婚式に合わせて一時帰国のスケジュールはすでに組んでいるし、2人の子どもたちは未就学児だから入れないし今回は無理。
行ける人が本当に羨ましい。興味があって行ける人がいたらぜひ、ぜひに。
 
 
芝浜を初めて聴いたのは車の中で、たぶん立川談志師匠のものだと思う。
父が時々遠出をするときに車で落語をかけた。
父は談志師匠と、古今亭志ん朝師匠が好きで、シンチョーはイイよ、最高だ。でもダンシもイイんだよね。天才だよ。何百年にひとりっていう天才だな。
ふたりは全然違うんだけど、イイんだなぁ。
というようなことを言ってて、名前はよく聴いていたのだけれど、
シンチョーというのが、どういう漢字を書くのか知ったのはラジオの仕事を頂いて、落語家の方とお会いしたり、実際に寄席に出かけたりするようになってからのことだ。
シンチョーのチョーは、鳥だと思っていたのだ。あの爽やかな感じ。怒っても愛嬌があって。祭りのときに股引はいて、スーパースターみたいにハチマキしてるおじちゃんみたいな色気もあって。
でもシンチョーを志ん朝て書くなんて、センスが良すぎる。自分では思いつけない。
 
落語は本当に奥が深くて、馬鹿馬鹿しくて、開けっぴろげで正直で、引き出しがいっぱいあって、思いも寄らなくて、私は落語になりたい。そういう人になりたい。
談春さんの落語、次はいつ行けるかなあ。
前回、前橋ホールでの独演会、子どもたち預けて車飛ばして行って、よかった。
幕が下りる直前に、いつも自分自身を切り売りすることでしか演れない噺家でございます、そう談春さんが話していたのを思い出す。
この独演会に一緒に行く前に、談春さんって、どんな落語家さんなの?と主人に聞かれて、迷って、私は…
”うまく説明できないんだけど、面白い話をするとか、泣ける人情話がいいとか、芸がとてつもなくうまいとか、そういうことじゃなくて、談春さんの話にはいつも大きな発見があるのだという気がする。古い話、みんなも知っている話の中に新しい発見が。私はそれが観たくて行くんだ”と話した。
でも、その発見は言葉で話しても、分かったようで分からない。
分かるというのは、分けることだからだ。
分けたら、ほんとは分からない。
分けて切り刻んだら、そこは掘り下げず、潔く違うものとして美味しくなったほうがいい。
切り刻み顕微鏡にあててみても、形は失われる一方で陳腐になるばかりだ。
できるのは証明だけだ。やっぱりこうではなかった、という証明だけ。
それでは全容すらつかめない。
だから理屈をこねくり回して、わかることなんてできない。
味わえたらいいんだけど。
目を閉じて、五感を研ぎ澄まし、ひたすら味わい、喜び、傷つく。
でも、それは簡単なことじゃないから。ひとりでやるには危険すぎるしね。
だからランボーに言ってしまえば永遠にわかることなんてない。
本当は人生やり直さないとアップデートできないコトだらけなんだけれども、小説や、芝居や、こういう落語は、自分ではない何かに憑依する、あるいは憑依されるときがあると思う。
そのときにちらっと見える何か。
もしかして、もしかして、本当は、こういうことだったんじゃないのかと、ちらっとよぎる何か。
自分が恥ずかしい、後悔、そして発見。私の人生だけでは見えなかった何かが、ちらっとよぎる。
 
談春さんの落語を観る、ということは、談春さんが見えている世界にいざなわれて、少しだけ目をお借りすることだ。
 
芝浜を演る、ということは、きっとあの話の中に、古くて新しくて電気が走る何かあるんだと思う。
でも談春さんのを観ないと聴かないとわからない何かが。
談志師匠の十八番だった芝浜。談志師匠から、俺よりうめえんじゃないの、コイツ、と言わしめた演目。
観てよろけたい。足元をすくわれて、喜びたい。
 
行きたいなあ。

さあ、元気に生きていくぞ

なんと、また赤ちゃんができました。

私はひとりっ子なので、小さいときにお兄ちゃんが欲しい、お姉ちゃんが欲しいと騒ぎ
それは冷静に無理だよと言われた後も、じゃあ妹でも弟でもいいから欲しい。
ほしいほしいほしい。
訴えたかいがありました。
私には兄弟も姉妹もいないけれど、愛しの彼らはなんと3人兄弟。
(あ、まだ女の子かもしれないけれど、女の子を産める自信がないから、とりあえずはこのようにしておきます)
考えようによっては、主人の前の奥さんの子どもたち2人も合わせたら5人の兄姉弟。
なんだか気が遠くなりそうですが、夢じゃないみたいです。
もうトシだし、もしかしたら、ちゃんと育たない可能性もあるし
ここで語る時期でもないのですが
私は赤ちゃんの存在をじんじんと毎日感じていて、今あなたがここにいることは確かだから、なにか言いたくなってしまったので、こうして書いているわけなのでした。
 
子どもができて、育てるということは、これからだって、今まで以上にたいへんなことだとは思います。
もう既に育てた人からしたら、わかってないなーと思われてしまう程度にしかわかってないかもしれないけれど、
たいへんなんだ、ということは認識しています。
ああ、でも。
私は今まで、子どもができるまでに、ここまでわくわくして、一ミリの疑いもなく夢中になったことがあったかなと思うと、それは多分恋くらいで。
でもだいたいの場合、恋は途中から、自分のことばかり考えるようになりますし、
(相手は私をどう思ってるかな、こないだの件ははどうかな、相手は本気かな、、、つまりは全部ワタシが幸せになるため!)
それでもちろん、自分の思い通りにはならなくて切なくて、アッパーカット辛い酸っぱいいろんなことを味わうものの。
どこかに逃げられる、という点では楽ができるし、だからこそ永遠に孤独でした。
子どもたちとの生活は、予想外にハードボイルド。
子どもたちは愛という名のモトで、にこにことんでもないことをしでかす。
(今日の長男はゾウがどうやっておしっこをするか、ということを研究しており、それを家庭で実践)
糞尿まみれの床を拭きまくったり、なぜか気まぐれに殴られたり
無理難題を当然のように大声で訴えてくることに、ブチ切れたり
毎日珍事件の連続。
ここから一歩も動けない、という不自由さ。
逃げられない、ということ。
そうか、だから、私は幸せです。
嬉しいです。
やっぱりすごく嬉しいです。
赤ちゃん、私のところに来てくれてありがとう。
時々キーキー怒っちゃうことも、あるかもしれない(気をつける)
どんくさいとこもある(これはたぶんなおらない)
私のところに来てくれてありがとう。
この大きな出会いに感謝。
あなたに会うために、母ちゃんは今まで生きてきたんだよ。
そしてこれからは、あなたたちみんなが育つのが楽しみで楽しみで、ぜんぜん死にたくありません。
若いときは寂しくて、ときどき無性に生きてることが辛くて、死にたくなったこともあったけれど
もうすぐ39かあ。
もう立派なおばちゃんだ。
さんきゅーさんきゅー39年。
今まで生きててよかったよ。
あなたにまた会えるんだものね。
さあ、母ちゃんは今日も元気に生きていこうと思います。

途中が好き

途中、というのが好きだ。英語だとprocessという言葉になるのだろうか。

嫌いなのは「それで結果的にどうなったの?」という話で、結果だけ聞いて、ああ、そういうことなんだと、わかったようなことを言われると少し悲しくなる。

たとえばね、少々汚い話で恐縮なんだけれど、上の息子がトイレトレーニングを始めた時のこと。

おしっこは出そうか出そうでないか、意識できるのだけれど、大きい方はどうしても、先に来てしまう。

認識よりも先にやってきてしまう。

怒ってみても、嘆いてみても、来てしまうんだから、どうしようもない。

トイレに彼の大好きなジャングルの草原のポスターを貼り、大きいのがトイレで出たら動物のシールを、なんと出血大サービスで3個貼って良い!(ちなみにおしっこは1個)

というキャンペーンもしてみたが、あまり効果はない。地道に1個ずつシールは増えていくばかり。

そこで、はたと気がついたのだ。

今思えば当たり前のことなんだけれど、来ちゃう前のなんとなくムズムズするときを、彼はまだ知らないのだ、ということを。

大きいのがおなかの中でつくられて、外に出るまでの、後半戦を意識できていないのだということに気がついたのだ。

母である私は、その後半戦を伴走することにした。

ご飯を食べた後、おなかに手をあてて

「こびとさんが今、〜くんのおなかの中で、一生懸命働いてくれています。こびとさんにアリガトウ!」

「こびとさんが〜くんの○○チをつくってくれてるところです。そろそろ下におりてくるかなー?」

ここからトイレに座って、今度は楽しい話、うちの場合は

www.amazon.co.jp

という本が好きで、何度も読んでいるから、私がこの話の中に出てくる恐ろしいトロールになってお話をする、という展開に。

とにかく、とにかくトイレに座ったままにさせておく。

しばらくすると、うーんと力み出して、放出完了、となるのだけれど…。

大切なのは「うーん」となってから、ではなく、その前の、言葉にならない、いつ始まったのかすら定かではなく、あやしいなあ、そろそろかなあというところを、認識できるか、ということだと思う。

息子はそれから必ず「あっ!○○ち!」と言えるようになった。

私はここで、別にトイレトレーニングをどうやったら成功させられるか、という話をしたいのではない。

もっと言うと、私はあんまりうまくいかなかったほうだと思う。とても焦っていたし、かなり怒鳴ってしまって、あのときは息子に申し訳なかったと思っている。

でも、話したかったのはそこではなくて、この「あっ!」のところまで、こういう、途中のところが好きだ、という話なのです。

本当においしい料理が出てきた時、間違いなく作り手が心地よい疲労感で満たされている感じ。

ここのパスタは美味しい。シェフが〜で学んだ人なんだってね。

こういうのは情報だから、すごく助かることも多いし、別にこれはこれで大切なのだけれど、情報だけ話していてもなかなか近づけない。相手にも、そして私自身にも。

これから生きて行く上で、情報に積分できないことをどれだけ語れるか、というのが、私の挑戦なのだと思う。